対話の向こう側  下野市芸術祭 ツバキヤ






2018年 1月吉日 (メモみたいなもの)

 

 主体(ヒト)対作品の構造を壊したくなってきた。 (なんかムカムカする)

 モノと向き合うって仕方を。 (もううんざりだわ)


 ハナから存在と向き合うこと、対話することを約束しているような関係性に於いて、主体と作品(モノ)といった存在は、そもそものお互いの対立(存在)に先立つ関係性については、考えるベクトルすら持たなくなってしまうんじゃないかと思ってしまって。 (家の外観見るのにはお外にでなきゃ。でもなく、それよりもっと外。 ~より、もっと外。 つまりは、パラダイム(範疇)のシフト(逸脱)、美術史からもサヨウナラ出来たらどんなに良いか。)


 モノと向き合うという姿勢は大事なことだと思うけど、当然ながら、ヒトによってその価値観はもう全然違う。キリンさんが一番の人もいればゾウさんが一番の人もおる。なんならユニコーンさんが一番でもいいなみたいな。


 だったら、一度、そもそもを装っているかのような対話(表象)、の外側に耳なり目なりを傾けてみるのもよろしいんじゃないかと思ったの。(意識現象以外の実在、いわゆる現象について考える機会があってもよかろうもと。トコトン彫刻が無関心でいるところ。ガッチガチーのコッチコチーの唯物論限定?仕様に拘れない。 存在はいつの時代のテーマでも素晴らしいことなのでしょう。 だから、どうでもいい。 存在とは何か?を目的にしないやり方、スタイルを、とりあえず、作ってみようかしら、が現在の僕のスタイル。(僕が彫刻を嫌っているのではなく、彫刻が僕を嫌っている。ここは本当に重要。真実(笑)あるいは真実(草)) 


 存在を後から規定してしまっていい。(って立場をとろうかと思って。 存在についての新しいアプローチの仕方は発見できるかもしれないけれど、そもそもの存在という定義は変わりはしないでしょう。それは僕にとっては行き詰まり。打つ手なし。存在を相手にしている限り、ぜーんぶ存在に持っていかれる。このパラドックス(自己言及)が存在なんでしょうよと。そうやって引っ張られるから、もうめんどくさいんだ。辻褄合わせ、裏付け、語り方を確かめる以前に目敏く保証書(それしなくてもイイッスよ。)が張られているみたいでどうにもならんわ。もううんざりだ。存在を経由しなくてもいい、むしろ、しない方がいいだろうと。マダ関係していない方が。)


 存在を、アポステリオリ(後天的、あるいは経験的)な事実として「のみ」考える。(これは、時間(時計の針のあいだ、差異(分割可能な存在者として表される時間ではなく、純粋持続としての未分割の時間)について考えるって言い方でもいいかもしれない。アクロバットした言い方だけれども。。。うーむ、穿って読めてしまうのは、僕が持続(存在ではなく生成)の立場から考えたいから、ってのが原因ですね。)


 経験に先立つ存在は、ハッキリ言ってよく分からないモノだ。 とりあえず、わかってしまう、分別できてしまう様なら、それは、「疑いたくなる」。それは、差異なく溶け混むんじゃないかと、理由なく思ってる。全ての境界こそ(と言っても、概念、言葉が区分けする領域ではないと思う、身体で言えばアフォーダンスの機能)を溶かす(白紙にする)はずだ。(それは、切断や超越とは別に混線(カオス)て形容できてしまうと、よろしくないなあと思う。線(志向性とか)は要らない。) 始めから主体と地続きの関係を約束してはいないはずだ。 他者よりもっと他者、私と相関関係にすら至ってはいない現象的なままの他者、つまりは、本当にお彼岸の他者(かといって、語れない訳では決してない。) けれども、それに先立つ関係性(システム、仕組み、形式)なら明確にできると思う。

 

 そのシステムとは、一度、身体が消えて、また、生まれ直すようなことだ。

 

 超越論的な身体性(開いていく身体性って言い方がいいかもしれない)の登場によって、かつての対立とは、違った仕方になるとは思うんだけど。。。 

 気づかないことにはどうにもならない。(されど、自覚の問題には触れません。知らぬ存ぜぬでいたい気持ち。 自覚ないし統覚を最終的な目的地に設定してしまうと、余りにも都合よく語れてしまってムカムカする。何かの呪いかと思いたくなるくらい。だから、僕はむしろ、真逆にしか興味がない。際限なく開く。際限なく失調させる。丁度良いなんて質を絶対に認めさせない。境界なく、比類なく異なり続けなければならない。ここに、アプリオリ(他者に先立つ自己)との出会いを約束するかの要素(関係)はいらない。けれども、ここに、アプリオリへの信仰、期待、欲望を寄せてみたい。)(む?違う方に行ったつもりでも、何かに呪われてる気がするな笑。。。なんかヴェイユくせぇな。。 さらに、パラダイムを越えないと⬅って考えるのは辞めた方がイイな。


「従来の関係性を越えて広がる」それも、際限なく持続することを目指して。

(考え事するのに身体は煩わしい。対の関係性(経験化ないし記憶すること、忘れるにも時間かかる。やっぱり要らない。閉じていく、還元していく身体性、トートロジーって言えばいいのか)ばっかり望んじゃう。)


僕の表現は、作品というか、未完成の作品って形容する事柄ですらなくて、そもそも、作品化以前の、素材の表現。


僕の作品を見て、これ、石でやらなくてもいいんじゃない? 


って思ったら。


つまりは、そういうことがやりたいって言うつもりで。。


詭弁だけれども事実。 こういう着陸の仕方が最近の趣味。 良いお年になるかなぁ(;´д`)




まとめ。


身体が無ければモノは際限なく広がる。

(ま、受けられませんから)


これが、僕のアプリオリを期待する関係性についてのアプローチ。


 僕が表現しているつもりなのは、空間の質それ自体。それも物凄く遠回りに。


 そこからハジめて対話なりすればいい。


 not yet relation


身体が存在しない人間の哲学。 うんむ。オカルト感がぱねえ。 これは、精神一元論とかそういうのじゃない。命名するのもナンセンス。おバカとか素朴と形容できればマシの類い。


とりあえず、

 

 まず、言葉が存在する。


ずっと、ここから哲学がしたい。というか、ここ以外は興味ないや。


 それで、どこへ行くかはまだ分かんない。


 「つくる」って概念を扱うのは当分先。


その前に、もっと盲目的にならなきゃいけない気がしてきた。それでも身体には依らない仕方で。  良寛さんとコンニチワしない仕方が欲しいな。。。 見ることからも離れたいし、触ることはもっての他で。 そのうちなんか思い付くはず。


知らぬ存ぜぬって、始めて書いたけど、ジワジワ興味デテキタ。 not yet relationの直訳でもイケるかも。 知らぬ存ぜぬの世界。 マイナスイメージ(語弊の類)も調味料にして美味しく料理したい。